『永平の風』


永平の風―道元の生涯

大谷 哲夫/文芸社

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以下、雑談です<<<

Aya
─ 永平の風、届いたよ。重いね(笑)


Kei ─
そうやねん、持ち運び不能や。家で読むことにした。

結局、あの重い本は持ち歩くのやめて、文庫の「永平広録」にした。
道元「永平広録・頌古」
道元「永平広録・上堂」選
道元「小参・法語・普勧坐禅儀」
この三冊。

重すぎて持ち歩けん、あれは。三分の一読むまでは持ち歩いたけど、それでも。

─ でもさ、永平の風、よさそうやね。本触ったときにビビっときた(笑)

そやろ。禅堂で見たときビビっときた。


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─ 道元さんのお父さんもお母さんもすごい人やったんやね。しかも、文殊と命名。


天下人や。育て方やな。常識はずれがいい。変な世間の権力闘争に巻き込まれないように育ててるやろ。それがいい。 多くの人は、その中に割り込むように育てる。

世間の事はむなしいと教えてる。

─ お母さんは藤原家の人。道元さんのお父さんは、頼朝の敵。なのに、その道元さんの禅が、のちに鎌倉幕府を支える。歴史は面白いね!

不思議ではないね。禅は何でも支えるから。

─ お母さんの前夫は、頼朝のために戦ってた。頼朝の従弟の木曽義仲。ぐるぐるやねん(笑)

そうそう。人生はグルグルや。最終、どーでもいいかも笑
特にどっちでもいいってことになる。



─ 道元さん、子供のころに詩経とやらの素読やってたんやね(P28)。永平の風の著者さん、素読の重要性とか知ってる人なんやね。ところで、詩経と儒教は関係あるの?

四書五経をネットで調べてごらん。アジアの基本教養や。漢文は、昔の日本の教養人には必須やったんやで。だから、中国語は先進国の言語でね、今で言えば英語。



─ ・・・感動やねー この本。

そやろ。

─ 道元さんの本読むと涙が出てくる。坐禅ひとすじ、っていう道元さんの本読んでる時もそうやった。

何かが感応してるんやな。

─ 本読んでて思ったんやけど、正師に出会えるってすごいことなんやね(P168~)。嗣法とかを疑いなく信じられるってことだけでも、もしかしたらすごい事なのかも。

そやな。見えてるってことやからな。

─ で、師匠が本当に法を嗣いでいるのかどうかが、なんとなくわかってしまうのも。いや、見えてなくてもなんかわかるやん。

そうそう。見えてるやん、それは。

─ 不思議やね。

でも、不思議やけど、わかるって前提やから、まーこれで当たり前。

─ 禅だけのことじゃないけどね。芸術とかも。

そうやな。なんか、センスが合ってるんや。ピントというか。周波数が。

最近の見解(けんげ)からすると、脳内のイメージ以外は全部宇宙アンテナやから 📡

嗣法とか、それも当たり前にわかるはず。その辺の波長が初めから合ってるのは、ある意味当たり前。疑う方が、脳内のイメージが強すぎて邪魔してる感じや。

坐禅してる私たちは、初めから波長が合ってる人なんや。だから、永平の風とか読んで、なんか感じるねん。同じ何かなんや。


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# by keiaya2015 | 2017-08-18 05:07 | 茶話・禅話

頭の中の世界から出る

●要点●
脳の働きの関与を受けない世界。その関与を受けない世界って、なんもない世界や。頭の中の世界から出るなんて、簡単や。そこに本来の自己がおる。頭の中は、まあ、過去の出来事とかのリフレインみたいなもんやから、大した意味はないね。それより、本来の自己の方が、世界と直結してて、アンテナというか、世界そのものの地盤やから、頭の中なんて大したものと思わん方がいい。わかってしまうと、大したことない。わかったらアホらしいで。

◆◆◆


禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから <<<

Kei ─

こんな見解(けんげ)あった。

2017.8.15
本来の自己・無我 = 脳の外の世界

空想の自己・自我 = 脳の中の世界



単純やけど、実感としてあるね、この感じ。

Aya
─ いいね。


わかる?この感じ?

─ うん。

多分、この感じは見性後の坐禅をしてわかってくるものかも。

ー じゃーわからん(笑)

脳の働きが見えるところまで行かないと。

─ ホントに見えるん?

その関与を受けない世界。

─ どこで見とるの?

その関与を受けない世界って、なんもない世界や。

ある意味で、脳の中の世界は塊の世界。

どこで見るって、普段見てるとこで見る。普段も、同じやで。ただ、頭の中の世界しか見てないから、それとわかってないだけやな。

頭の中の世界から出るなんて、簡単や。そこに本来の自己がおる。

頭の中は、映像が勢いよく回ってるみたいなもんで、まあ、過去の出来事とかのリフレインみたいなもんやから、大した意味はないね。過去の体験かな。

─ フム(( ˘ω ˘ *))フム

それより、本来の自己の方が、世界と直結してて、アンテナというか、世界そのものの地盤やから、頭の中なんて大したものと思わん方がいい。

頭の中は影の世界、反響の世界、響きの世界。ほとんど自主性なんかない。自主性と思っているものは実は反響。過去からのリフレイン、響き程度のものや。

見るというのは、実は本来の自己の働きや。

響きを見てたら、それが自主的な何かと錯覚してしまうんやな。波立ちみたいなもので、自主性はない。

この場合、目は見るもの自体で、脳の中にいたら、目はそこにあり、外にいたら目はそこにある。手が目になり、足が目になり、音が目になる。無が目になる。ムーーが目になる。

─ わからんよ。

わかりたいけど、

とにかく、脳の中の世界が塊ってところがわかるには、その塊から出ないことにはな、一回。

それが見性やな。

脳の働きの影響はデカイ。でも、わかってしまうと、大したことない。

ちょっとしたからくりってほどや。カラクリやな。

カラクリ、カラクリ。

わかったらアホらしいで。

─ アホー?

そう笑笑



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# by keiaya2015 | 2017-08-16 05:52 | 禅者の成長の歩み 2017
●要点●
今回の公案は深かった。深くて行き詰まってた。分別心の正体。妄想とかね。・・・求める働きと、求める対象。求める働き自体が仏。でも、対象となるものは、妄想。分別機能自体は仏なんやけど、その分別の内容は妄想なんや。わかる?これは難しいで。これが本当に見抜けたら、悩むことがなくなる。悩み自体が存在しなくなる。分別という、仏がいてくれれば良いということになるから。

言葉で説明できるものはみんな偽物。偽物と言葉は同じ世界の存在や。本物はその世界にはない。偽物は表現できるのに、手に入らん。ないから。本物は表現できんのに、既に手に入っている。黙っていれば満たされ、語れば飢える。語れば偽物に占領され、本物を失う。語ることはつまり、この様なことを知らせるためや。偽物を語りつつ、反面として本物の存在を知らせる役割。面白い。

◆◆◆


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Kei ─

やっと進展あった、見解(けんげ)。

公案はなかなか良くできとる。

老師も中々ええ指導しよる。

Aya
─ 上から何とかや。笑


今回の公案は深かった。

大事なところが見えた。深くて行き詰まってた。

分別心の正体。妄想とかね。難しかった。

(坐禅メモより)
間違っていた。分別心の働き自体が仏=本来の自己なのに、その分別心の働きによって他に仏を求め出したりする事から「毫理の差→天地の隔たり」となるのだ。

●無分別心が海底なら、分別心は海面の波だ。共に本来の自己である。分別心の働きによって、海=本来の自己のあり方を忘れて、何か別の本来の自己を求め出した時に、海=本来の自己から離れてしまう。

●分別心自体は、五感と同じ様に無意識に働いているだけだ。



昨日の見解ね、求める働きと、求める対象。

求める働き自体が仏。

でも、対象となるものは、妄想。

分別機能自体は仏なんやけど、その分別の内容は妄想なんや。人間には知性がある。それは仏やけど、その作り出された概念は妄想。

わかる?

これは難しいで。

これが本当に見抜けたら、悩むことがなくなる。悩み自体が存在しなくなる。分別という、仏がいてくれれば良いということになるから。

ようやくそこが見えて来た。

結局、元に戻るだけなんや。

本当の自己が海の様なものだとして、どんなに定義しても海は定義できない。波が分別の働きとして、これがアレコレ考える。

考えてみても、波に戻るしか他には何もない。

波は海に戻るしかない。

それ以外何もない。



波という分別の働きが、何か他にある様に錯覚する。実は何もない。

─ で、それってどんな感じ?

妄想は妄想でよし。という感じ。何も特別なことはないな。

妄想を妄想だよって言ってる感じ。

わかる?

これで解決やな。

妄想に、これは妄想だよと。

で、自分自身はというと、この本来の機能は、もう定義不能。定義できん。

妄想のことは定義できるのに、本来の自己は定義できん。

つまりな、残念なことに、妄想しか、つまり偽物しか定義できん、言葉では説明できんということや。

言葉で説明できるものはみんな偽物。

偽物と言葉は同じ世界の存在や。

本物はその世界にはない。

本物は不定義、非表現、非言語や。

本物は捕まえられない。でも既に手に入ってる。

偽物は表現できるのに、手に入らん。ないから。

本物は表現できんのに、既に手に入っている。

わかる?

黙っていれば満たされ、語れば飢える。

語れば偽物に占領され、本物を失う。

語ることはつまり、この様なことを知らせるためや。偽物を語りつつ、反面として本物の存在を知らせる役割。面白い。




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# by keiaya2015 | 2017-08-13 05:22 | 禅者の成長の歩み 2017

最近の坐り


禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから <<<

Kei ─
最近、見解(けんげ)ない。只管打坐や。

Aya
─ えぇやん。それこそ坐禅やないの?

わからんけど、「は!?」っとするような事が無い。まあ、知性がオマケみたいなものとはわかってきたけど。

─ スランプ?

スランプではなさそうや。でも、見解が無いのは寂しい。

─ 寂しいの?笑

まあ、それでええのかもやけど。



この前の坐禅会の時、やけに妄想が湧いて、苦労したけど、最後辺りに落ち着いてきて、

思ったのは、まあ、普段こういう俗の生活してると、知らない間に思考のかすというか、分別のアクみたいなのが詰まってて、坐り始めるとそれが噴出してきて、中々きれいになるまでに時間がかかるのかなあということ。

─ なるほどね。だからかな、朝よりも夜の坐禅の方が妄想が多いのは。

そうそう。そういう意味では、妄想とは言うけど、言い方変えれば、それは昼間の活動の残像みたいなもので、なんていうか、わかる?言いたいこと。

思っているほど重要なものではないってこと。単なる残像のようなもの。

妄想って言うと、なんか病気のようなイメージだけど。実際は、光の流れとか、そういう残像で、とても機械的な生理的な話。

そういう風に見えてきた。



こうやって少しずつ解決していくと、しまいには、特になんというものは無くなり、言葉で捉えている大袈裟なものは何もないと。

言葉で言うと大げさな感じになってるけどね。悟りとかも。でも悟りも、そのままの実体が見えるようになるってだけやろな、実際は。

妄想も、単なる日中の活動の残像とすれば、普通言っているような妄想なんて存在せず、脳内に焼付いた映像などが何かの刺激で思考を伴ってフラッシュバックしてるようなもの。どっちかと言うと、妄想ってフラッシュバックに近いんじゃないかな。何かの刺激で思考がフラッシュバックしてるだけ。

その辺が見えて、とくに驚きとかが無くなった。

フラッシュバックなんて、自分には関係ないもの。機能的なエラーみたいなもんやろ。もしくは、フラッシュバックで生理的な何か調整でもする役割でもあるのかな。

とにかく、それはなすがままに放置するのがベストってことだけは確実や。筋肉の痙攣みたいなもの。そのままにしておいてよい。


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# by keiaya2015 | 2017-08-10 13:21 | 禅者の成長の歩み 2017
●要点●
貪欲な自分を殺しつくすのが坐禅なのに、小さな怯える自分を守るために坐禅をしてるような人もいるかもね。その小さな自分を救おうとして頑張っている人。ところが真反対やな。その小さな怯える自分は絞め殺す。坐禅で。そしたら、宇宙大の自分が出てくる。これ、伝えたいね、世の中に。

現代に禅が受け入れられにくい原因は、この「自分を殺す」というところやな。自分を殺し、枠を壊す。これ、現代的には、反社会的みたいな感じになる。アウトロー。でも、間違いなくこれや。禅は、そんな行儀のええもんじゃない。社会生活は、自我を保護するってことやろ。禅はそれを殺す。宇宙のルールで生きることになる。禅は、地球人としての自己を殺してしまう。人としての自分を殺してしまう。

◆◆◆


禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから <<<

Kei ─
坐るだけでも意味があることはわかったやろ?

─ Keiさんにとって意味があるのはわかる。でも、頑張ってるのに上手く坐れない人にとっても意味あるの?

あるある。(でも、何かを得ようとして坐るのは違う。)あの、貪欲な自分を殺しつくすのが坐禅なのに。

小さな自分という枠の中にいるとね、あれも欲しい、これも欲しい、こんなんじゃやだ、あーだこーだとなる。その小さな枠の中に閉じこもる自分を殺してしまえば、そんな枠自体要らない。

その小さな怯える自分を守るために坐禅をしてるような人もいるかもね。その小さな自分を救おうとして頑張っている人。ところが真反対やな。

その小さな怯える自分は絞め殺す。坐禅で。

そしたら、宇宙大の自分が出てくる。

これ、伝えたいね、世の中に。



綺麗事やないな、坐禅は。

宇宙大の自分は間違うことはあり得ない。

間違いという概念がそもそもない。これ、中々大変なことやな。

自分という枠をはめて生きてきてる人がほとんどやん。その枠自体を壊すのが坐禅やで。壊すという表現では甘いよな。やっぱり、殺すや。枠ではなくて、その中で生きようとしてる自分をな。

現代に禅が受け入れられにくい原因は、この「自分を殺す」というところやな。

自分を殺し、枠を壊す。



これ、現代的には、反社会的みたいな感じになる。アウトロー。でも、間違いなくこれや。

はっきりさせておいたほうがええな。ここは。

禅は、そんな行儀のええもんじゃない。そんな、奥座敷でしゃなりしゃなりとやってるもんじゃない。殺して破壊する笑笑

まー、無邪気な子供ともいえるけど。

─ まぁ、坐禅にも色々あるってことで。野球や水泳に色々あるように。

坐禅にも色々あるってことらしいけど、最上乗禅は、こうらしい。見性ね。全く一枚になる。

結局、無になるとかの表現では生ぬるくて伝わらんのさ。というのは、坐禅自体が苦しい人にとって、無にとか言っても、ダメやろ。だから、表現的には、その苦しい自分を殺しきる!なんや、やっぱり。

苦しくてもいいから、そのまま坐って、死ぬまで坐る。死ぬのを待つ。このほうが表現的には正しい。



綺麗事は良くないね、やっぱり。

分別妄動の自分が死に、そして、枠が壊れ、そして生まれ変わる。こんな感じが正しい。

自分の見性の時も、ある意味ではこんなことやったかもしれん。あの時は、違う受け取り方をしたけど、実際は、枠組みが壊れて、物の名前とか、そういうものでできた世界が壊れたんちゃうかな。自分も死んで。そして、宇宙的な人間に生まれ変わった。

Ayaさんもそういう意味ではもう少しやで。生活に追われてるから、自分を殺すとかとんでもないようになるけど、真逆やから。

ある意味、そこが一番大変なんや。



小さな自分を守るのが社会生活やし、それを殺すのが坐禅としたら、この矛盾は。

これこそ、はっきりさせたほうがいいことや。

常識的には、これは矛盾をきたす。社会生活は、自我を保護するってことやろ。禅はそれを殺す。宇宙のルールで生きることになる。常識的な社会人ではなくなる。

─ 反社会的とは違うでしょ?

常識的な社会人を装うことはできる。常識的な社会を守ることもできる。

少なくとも、自分の自我には未練はない宇宙人やな。

禅は、地球人としての自己を殺してしまう。人としての自分を殺してしまう。



いやー、面白い。はっきりしてるのが好きな私としては、これいいわ。

─ もう一息?そこまで。

そやな、一息やな。

老師は、もしかしたらこのことを私に言ってたのかもやな。気が付かせようとしてるのはコレかもな。

間違いない。


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# by keiaya2015 | 2017-08-03 05:59 | 禅者の成長の歩み 2017

某坐禅道場で悟後の修行に励む在家禅者の個人的なブログ◆悟りとは、禅とは、坐禅修行とは… ブッダから途絶えることなく継承されてきた「禅」という究極の道を歩む修行者が、リアルな体験を元に語ります◆修行の歩みを記録して行くことを通して、伝統的な坐禅修行の奥深さと卓越性をお伝えすることを目指しています◆「悟りとは徹底的な否定の連続、だからどこまでも進んで行く」by Kei since 2015


by サラリーマン禅者