本当の人生


禅者のつぶやき
by Kei

さて、見解(けんげ)と言いたいところやけど、もう、見解も何もないわ。笑

Aya(坐禅初心者)
─ ブログの危機や~


いや、かえってグレードアップかもやで。これまでの見解の方がちょっと未熟やったのかも。

幻が本質なら、それは新しい生き方や。

現実を生きているとしたら息苦しい事も、幻の人生なら、さわやかやろ。

(苦手な人も、相変わらず苦手な人やけど、)これ、自分の自我を研ぐ研ぎ石みたいなもんやな。(苦手な人の)幻。

─ 自我を研ぐの?どういうこと?

自我が残ってるから、研ぐ。

幻影は、幻影として受け取らなきゃいけない。幻影でいいんやーー!って人生を送れないとけない。積極的にね。

幻影を生きるって、結構高度やで。何も見返りはない。ただ生きるだけ。見返りどころか、得るものも失うものも無い。

─ じゃぁ、ブログは続きそう?

次のステージに入るね。ブログ。

得るものも失うものも見返りもなく、生きる。

これが本当の人生。

何もないのにやる、生きる、進む。

この「何もないのに」が重要や。これ、「無心に」とか、カッコいい言い方もあるけど、とにかく何もないのに、や。これ、わかる?何もないのにっての?

─ よーわからんが、空、幻ってこと?

いや、何もないのにや。見返りなしに働くとか、そういうこと。訳もなく死ぬって同じことなんやけど。



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# by keiaya2015 | 2017-04-27 05:52 | 禅者のつぶやき
●要点●
悟っている人以外の人は、大なり小なり妄想の精神病、統合が出来なくなった統合失調症や。この世の出来事一つ一つが現実とすると、間違いなく統合は無理になる。その統合が無理になった出来事に翻弄される時に、その人は病気になる。但し、普通の人はそれを完全に知らなくても、本能的に知ってる・・・。だから適当にスルーしたり無視したりして、混乱しないですんでいる。

全てを幻と見抜けてこそ、全てが統合される。悟る鍵やな、幻は。言葉で定義する事は全て内容が無くカラッポ。そのカラッポがワンネス、幻、空即是色、色即是空。その幻が宇宙の本当の姿や。この宇宙が宇宙を見ている。外を見ても内を見ても、どっちも自分を見ているんや。だから、坐禅して自分を見るんや、もっとよく。

◆◆◆


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Kei ─
昨日の幻の話、その幻が宇宙の本当の姿や。

この宇宙が宇宙を見ている。

つまり自分を見ているのだから、坐禅してもっとよく自分を見る。

外を見ても内を見ても、どっちも自分を見ているんや。だから、坐禅して自分を見るんや、もっとよく。



今日のテーマは、「現実…幻」。意外に凄いテーマかも。この現実を見る一つの、スコープになる。

この世を「目で見た通りのストーリー」と考えると、無茶苦茶混乱する。完全に幻影ということを理解してないと病気になるよ。

但し、普通の人はそれを完全に知らなくても、本能的に知ってる・・・。だから適当にスルーしたり無視したりして、混乱しないですんでいる。幻影にガッチリ翻弄されると、狂うよね。

「一切は幻であり、それで統合される」 これは凄いわ。

Aya
─ 「但し、普通の人はそれを完全に知らなくても、本能的に知ってる・・・。」これ、そうだね。生死問題のこともなんとなくスルーできたりしてる。スルー出来ない人は、ものすぐこく苦しんでしまう。

そうそう。



さっきの話ね、地元の子供たちが、部活の公式戦で、勝ったり負けたり、そして泣いたり笑ったり・・・。その大会の後、自分たちの中学校のグランドに戻って、更に練習を続けていてね。その練習を見に行ったんだけど、実はそのグランドは自分も中学生の時に部活で練習をしたグランドだったんだよ。

暫く練習風景を見ていたら、その光景が急に現実感を失って、自分の子供の頃と区別がつかなくなってきてね、そしたら更に自分の父親やおじさんがいた頃とも・・。

その時はなんとなく不思議な感覚を覚えただけだったけど、その後、その場を去ってから、「あー、これらは幻や」と深く感じ始めた。

何一つリアリティはない。完全な幻影を生きているんや。

その時、これまでにない充実感と一体感。

なんで、この世の出来事を繋ぎ合わせてストーリーを作り、そのストーリーを現実としなければいけないのか・・・ 般若心経にいう、空即是色、色即是空とは、この幻のことなんやな・・と実感したよ。

─ Keiさんが感じているのは、健常者と言われてる人たちが、精神病の人が妄想を現実と思ってトラブってるのを理解できない感覚と似てるかな?

そうだと思う。



本当は、悟っている人以外の人は、大なり小なり妄想の精神病、統合が出来なくなった統合失調症や。

─ なるほど。そうかもね。

全てを幻と見抜けてこそ、全てが統合される。

この世の出来事一つ一つが現実とすると、間違いなく統合は無理になる。その統合が無理になった出来事に翻弄される時に、その人は病気になる。

─ 「全てが統合される」って?ワンネス?

ワンネスや。ワンネスは全てを幻と見抜けないと実現しない。ワンネスなので、全ては幻なんや。

悟る鍵やな、幻は。



臨済宗妙心寺派東京禅センター講演録 【白隠禅師『臘八示衆』(2)】
これの第5夜のところに平四郎の話がある。これが、その中学校のグランドでの体験に似てる。あれはどう見ても幻や。

というか、全ての出来事が幻。それを現実、リアリティと考えてしまう頭になると、狂ってくる。

だから悟らなくても、人は、世の中の出来事を適当に流したり忘れたりスルーしたりする。それで、結果的には現実性を低くして、幻影のように扱う事で助かっている。

そもそも、逆なので、なにもそんな無理して工夫しなくても、真正面から「幻」としてみればいい。いっぺんに解決する。そもそも幻影なので、自分も世界も宇宙もどこにもない。それがワンネスなんや。

言葉で定義する事は全て内容が無くカラッポ。それがワンネス。そのカラッポがワンネス、幻、空即是色、色即是空。

─ 般若心経では、「色」が先の「色即是空、空即是色」じゃないの?なんで逆にするの?

そう覚えてるから。

─ Keiさんの場合は、「空」があたりまえやから、それでもええね。笑



─ で、坐禅をしなくても悟る人はいる、でも、坐禅を知らないとそれがなんだかわからん、て話は?

坐禅をしないと、見た幻がなんでかわからなかったやろね。誰とも共有できなかった。今は、禅のおかげで、これでいいのだとわかる。この差は大きいね。

─ 禅を知らない人が同じ体験をしたら、頭がおかしくなったって思われるし、本人もそう思うものかな?

そうそう。だから、気が付かないでスルーするね。これは、自力で気付くには難しいよ。この世が幻と、どうやったらわかるのか・・・



幻影。幻影としてある。幻影と見抜くとこの世は楽しい。

─ どう楽しいの?

リアリティがなくなるから。リアリティって、単なる妄想的ストレスで、病気の一種ちゃうか。

─ 映画が楽しいのと同じ?

そうそう。



まだ幻影感が強くてなー

ノスタルジックでもある。なんか昔のこととか、やけに蘇る。幻やから、かえってそうなるんやろな。

幻は自由自在やな。


●付け足し●

・・・やっぱりあかん。うまく言えんけど、同僚たちの考え方や、振る舞いが嫌や。このノルタルジックな、幻影を見る目とで、あの表面を作る振る舞いが耐えられん。ある人のへつらい的行動も鬱陶しく、あかん、空々しい感じが。

─ さっきは、幻と見抜くと、この世は楽しいって言ってたよ。楽しくなさそーや(笑) これ、ブログの編集人として確認させてもらいたい。どっちやねん!

そのようにしたら、浮いた。笑 楽しいよ、どうでもいいなら。

─ まぁ、映画を見て腹立ててる感じ?

腹も立てないなら、映画も見んやろ?

幻と知りながら、泣き笑いができる仲間がいい。そうでない仲間は、意味がわからん。

─ 意味がわからんて?

なんていうかなー つまり、話したくないから話さん、そうしたいんや。それでことは足りる。無理にでも話さなあかんのは疲れる。

こういう話ができたらいいのにな。坐禅仲間とは、できる。



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# by keiaya2015 | 2017-04-26 05:57 | 禅者の成長の歩み 2017
●要点●
空、空、空で、結局何もない。でもその空は、全ての幻、既にいなくなった自分の親とか先祖とか、そういう幻を生み出す空。何もかもが幻なんやけど、この幻が宝なんやな。この頭脳が創り出すものは確かに素晴らしい。でも、幻という宝は、ことさらに追い求めるものではないような気がしてる。この幻は決して手にしようとしてはいけないもんなんや。

一切何も得ることがない、それを生きるんやな。その時に初めて、この幻が宝物であることを知る。その幻は、人間に教えてくれるよ、、、本当は何も無いんや、何も無いけど、せめて幻はあるって。しかしね、この幻はすごい。場所も時間も何もかも超越してる。なんの制約もない、この幻は。

◆◆◆


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Kei ─
今日も見解(けんげ)あった。

虫の声が、また自分。

Aya
─ この間は雨の音やったね(笑)


これ、白隠さんが大悟した時にも言ってたな。コオロギの声を聞いて、法華経の真意を悟ったと。

とにかく、雨音にしても、コオロギの声にしても、「自分」という観念の枠が外れることは同じ。

(無字の公案の)ムーーもそうやわな。自分と思ってる観念の枠が外れると、ムーーまで自分になる。

要するに、繋がってるからなんや。全部、一つのものやから。ムーーでもポツポツでもリンーリンーでも、それって、全くの無限定の広がりや。凄いね、この事実。



(数日後)

なんかね、今回の帰郷で、いろんな人と話して、なんか思考が変化したよ。学校関係者とか、部活関係者とか。なんて言うかなー。懐かしい感じになれててねー。禅はもちろんいいし。そのままで、昔々の懐かしい…

─ ときどきあるノスタルジー?

いや、そういうんじゃないね。特に何も考えないで、全てのことはOK!みたいな。全てこれでいいのだみたいな。

なんだかよくわからんけど、物凄くしんどいし。原因不明な状態。何かが起きたね、内面に、これは。



全てこれでいいのだ! 実際何もない空やけど、それでいいんや。

空、空、空で、結局何もない。でもその空は、全ての幻、既にいなくなった自分の親とか先祖とか、そういう幻を生み出す空。何もかもが幻なんやけど、この幻が宝なんやな。

何もなかったんやー。幻を生きとる、幻を生きることが自由なんや。

この幻は、量子コンピュータが創り出す仮想現実、3Dや。現実と幻の差はない。量子コンピュータが創り出すんじゃないけど、まあ、同じ原理や。幻と現実の差なんて初めからなかったんや。現実とは幻のことであり、幻とは現実のことやったんや。

─ 宝って表現、えーね。

この頭脳が創り出すものは確かに素晴らしい。でも、幻という宝は、ことさらに追い求めるものではないような気がしてる。

これは、創り出して人に見せたり、創って自分で喜んだり、そんなものでなくて、なんて言うか…主たるもの、メインなもの、そういうものでなくて、この幻は決して手にしようとしてはいけないもんなんや。

一切何も得ることがない、それを生きるんやな。その時に初めて、この幻が宝物であることを知る。

何も無い、何も得ることはない、だからこの幻が宝になる。

ありがたい幻となる。

何も得ることがないこの世に、有難くも幻を見ることができると。

何かを得られると思ってる人にとって、現実が幻なんて耐えられないことになるやろうけど、悟れば逆になる。何もない中に、せめて有難くも幻がある、となる。

このほうが、自分の気持ちにピッタリくるよ。せめて幻があるおかげで、喜怒哀楽を味わえる。



なんでそう思ったかというとね、中学のグラウンドに行ってね、私はそこで部活で練習とかしててん、昔。その(部活をしている)風景を長い間見てて、自分の若い頃の様子と重なって、そして、まさにそれは幻やん。

これは何世代も繰り返されて、そして、全ては幻や。自分も親も先生も子供も。

我々は幻を生きてる。

でも、その幻は、人間に教えてくれるよ、、、本当は何も無いんや、何も無いけど、せめて幻はあるって。

「本当は何も無い」ってとこだけ、禅での悟りが必要なんや。あまりにも、突飛すぎるから。

─ 突飛?

あるように見えるやろ?世界。

でも、そのような部活の練習のような光景を見てても「何も無い」ってことが悟れるけど、まあ禅の方が早いやろな。

─ 悟れるかなぁ。

悟れるよ。何も無いとしか言えんやろ。

昔、あそこで自分も部活の練習しとった。その前のおじさんも。幻や。

しかしね、この幻はすごい。場所も時間も何もかも超越してる。今が太古の昔であってもいいし、今が近未来であってもいいし。なんの制約もない、この幻は。

─ よーわからんが、こういう話には何か感じる。

まだわからんやろなー。見性が必要や。



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# by keiaya2015 | 2017-04-25 05:11 | 禅者の成長の歩み 2017

禅者の言う「無」の世界

●要点●
心身ともに、実体は無限定。有るとは言えず、これは「無い」と言う他ない。あらゆる限定が外れ始めると、それが禅者の言う「無」の世界。禅というのは恐ろしい。この皮膚に生えてる毛一本にしてもね、山に生えてる木との違いがわからなくなる。境目をつける意味がどこにあるのか。

自分はどこにいて、どれなのか。自分という範囲は、あくまでも物差しの目盛りと同じで、人工的に考え出したものや。そう悟ると、世の中の出来事は、凄くシンプルや。自分がいると思ってるから、人生がむなしくなる。人生は宇宙の活動なんやから、どんな状況にいても、自分の状況じゃなくて、それは宇宙の運動なんや。

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Kei ─

心身ともに無限定。

無限定=無い。

「有る」というのは、限定され特定されるという事。ところが、心身ともに、実体は無限定。有るとは言えず、これは「無い」と言う他ない。
(2017.4.20 坐禅メモより)



限定してこれ、特定してこれ、こう言えないものは、有るとは言えないという事。

「心」は特にわかりやすいが、「体」はわかりにくい。特定できるように見える。

Aya
─ そうやね。体には五感があるから。


その五感が問題や。それ、何かを感じるときは、どこに限界がある?寒さというのは、外気温と五感と、どこでどう分ける?どう限定する?



心と体と、限定が出来ない。

五感と言えば出来るように思うかもしれないけど、実際は、外気温と五感と分けられない。外気温抜きの五感の体感はない。その外気温はそのまま宇宙と直結。

─ 分離症を自覚はできても、わからん。実感できん。

え?わからんの?五感と外気温を分けること自体が分裂症やん。

─ そーや。笑

分けられないのに、実際は。無理に分けとる。分裂症や。

─ 今日の見解(けんげ)、これは言葉ではこれ以上説明できんよね。たぶん。

そうだよ。それなんだよ。

─ あきらめて、他の話しよう。

やっぱり悟らないと無理か。笑

─ ムリムリ。

こんな簡単な事。



─ 「そろそろ消えてしまいそうな感じがする」って話は?

消えるって話は、もうね、心も体も、その限定が出来なくなるってことね。これは、間違いなく人格に影響するよ。

心も体も「自分」という単位があるという前提で生活してきているのに、それが無い。

「無い」の意味が問題や。それは、限定が出来ないという意味ね。例えば、最大数、最小数ってのがあるようで実はないやろ?

─ 観念やよね、それ。

あれは、100とか1000とかをルール上、最大とか決めるからそうなんであって、実際、ルールが無ければない。

体は?心は?もし、個人というルールがなければどうなる?

個人という単位をルールにしなければ、その五感にしても、どこまでが五感なの?物差しの目盛りと何が違う?



この皮膚に生えてる毛一本にしてもね、こうなってくると、山に生えてる木との違いがわからなくなる。限定が不能って事は、そういう事だね。

境目をつける意味がどこにあるのか。

禅というのは恐ろしい。



─ 「皮膚に生えてる毛と、山に生えてる木の違いがわからん」て表現、気に入った。

そういうことなんだよ、限定が外れるって事は。

それは、太陽の周りを回る衛星と、風呂の水面に浮いてる垢と垢が互いに引き寄せあう事と何が違うのか、

あらゆる限定が外れ始めると、それが禅者の言う「無」の世界。

何が何とか言えなくなる。
自分はどこにいて、どれなのか。

自分という範囲は、あくまでも物差しの目盛りと同じで、人工的に考え出したものや。風呂に浮かぶ一つの垢が自分の範囲を考えて拘るくらいにバカバカしい。

そう悟ると、世の中の出来事は、凄くシンプルや。 物凄い簡単や。いろんな思想哲学も、そうや。

自分がいると思ってるから、人生がむなしくなる。



人生は宇宙の活動なんやから、どんな状況にいても、自分の状況じゃなくて、それは宇宙の運動なんや。

生きる事も死ぬ事も無いのは、自分の体とか心とかが無い、宇宙の働きやから。生死が無いのは、宇宙は個人という目盛りの無いのっぺらぼうの物差しやから。

そこに自分という目盛りを入れるから、生死って話になる。そもそも、その個人が無い。

「自分が無い」という方よりも、「個人が無い」という方がいいね。個人はないけど、皮膚に生えた毛一本、山に生えた木一本。この単位ではわかる。

─ ところで、一度の見性では、そうはならんの?人によるとは思うけど。

具体的な言葉になるほどにはならんね。無理やね。悟っても、それがなんなのかわからんよ。どうなったのかわからん。

─ ビックリする感じ?

そう。爽快な気分とか。

後は、要するに自分の事やから、自分を深めるだけや。(見性・悟り体験は)自分を深めるキッカケやな。でも、分裂症が少し良くなった気分やから、なんて話やない。 なんてことない話や。



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# by keiaya2015 | 2017-04-21 05:34 | 禅者の成長の歩み 2017
●要点●
呼吸を把握するのに頭脳は要らない。その意味は、呼吸を把握するとは、分析ではなく、呼吸になる事だから。目の前の物になるのにも頭脳は要らない。なぜなら、頭脳の働きが一つになる事を邪魔しているから。「一つにになる」という言葉もダメだね。一つの物を頭脳が分裂して見させているから。普通の人には、分裂した世界しか見えない。頭脳の奴隷になっている。

頭脳の機能は分裂症を引き起こす。解決策は、ただ頭脳の分別機能を一時停止してみればいい。ところがそれが出来ないほどに、病的に頭脳の機能に依存している。これはね、明らかに病気や。悟りとは、分裂症を治す事。分裂症治療。無字の公案は、その処方箋。分裂症に気が付く事が、悟りの入口や。

◆◆◆


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Kei ─
無という事実。

これね、無とかなんとかよりも大事な事がある。・・・これは難しいなあ。なんて言えばいいのかな。

頭脳が分裂している状態、元々一つの物をバラバラにしている状態。それを一つの物に戻す、一つの物に回帰する事。それが悟り。

Aya
─ うん。


これは余談だけど、鈴木大拙さんの本が、まどろっこしく感じる。あれだけロジックを駆使すると、益々分裂する。本来の一つのところに回帰するのが禅の目的やから、言葉や論理を駆使すればするほど、その一つから離れてバラバラになる。

頭脳とは、分解の作用なのでしょうがない。分解するのが頭脳の仕事。

早い話が、頭脳から「事実」へ回帰する事。

「事実」と言うのは、頭脳を媒介させずに把握する事。

例えば、呼吸を把握するのに頭脳は要らない。その意味は、呼吸を把握するとは、分析ではなく、呼吸になる事だから。

目の前の物になるのにも頭脳は要らない。なぜなら、頭脳の働きが一つになる事を邪魔しているから。

「一つにになる」という言葉もダメだね。一つの物を頭脳が分裂して見させているから。普通の人には、分裂した世界しか見えない。頭脳を媒介にしてるから。



この世界は一つで、あらゆる現象を生じているに過ぎない。

死んだり生きたり、それは現象の姿を言っている、頭脳がね。生や死という言葉で、現象を表現しているだけ。生や死という言葉で、現象を区切って表現しているだけ。

いわば、物差しの目盛りやな。時間とか。物差しも人工の物で、そもそも無い。人が定めた目盛りや。

この、「本来一つである」というのは、昨日も雨音を聞きながら明白になっているよ。あの、ポタポタ・・・という音は、自分やで。自分があの音になって出てきている。

あの音の元が本来の自己。

─ 音の元?

ポタポタという音は、自分自身が奏でている音や。生理現象の話じゃないで。自分の耳が無ければ音も無いとか、そういう意味じゃないで。あの音の発生する母体自体が本当の自分ていう事。

なんでそれが普通の人に分からんかと言うと、頭脳が創り出した観念の世界が邪魔なんや。

例えて言うなら、海のAさん波が、隣のBさん波を見て、やあ、君は誰かな?って言ってるようなもの。自分自身を見たら、自分は海だとわかる。そしたら、Aさん波もBさん波も、共に自分自身とわかる。

ところがそうは思えなくなっている人間はどういう事かと言えば、頭脳に依存してて、あの波、この波と分ける機能の言いなりになっている。頭脳の奴隷、もしくは頭脳の創り出した「Aさん波、Bさん波」という分別の名前の奴隷になっている。



頭脳の機能は分裂症を引き起こす。

解決策は、ただ頭脳の分別機能を一時停止してみればいい。

ところがそれが出来ないほどに、病的に頭脳の機能に依存している。

─ 病気やね。

そう、これはね、明らかに病気や。なにも高尚なものでも何でもない。聖なるものとか、そんなものでもない。病気治療や。

頭脳が創り出した言葉や観念、概念、ロジック、こういう分析ツールに縛り付けられて、それから脱出できなくなった分裂症。

こうなったら、見性という言葉も怪しい。見性なんて難しい言葉、これもアカン。自分を見たら、それでわかること。



一体、どこに自己の独自性なんてあるのかな?この体、80%が水で出来ていなかったっけ?もっと?(※実際は、体重の70%程度が水分だそうです。)後の成分は?それが全てじゃん。その他は妄想。

その成分が泣いたり笑ったり、喜んだりと七変化するんだよ。それがわからず、むきになっている。

別にこの生が苦しくても、その苦しみは海自体の物。

波自体のでなくて、海全部のストーリーや。

今生の事ね。今生はこれ、次の生は、また別の物。どっちにしても海のストーリー。痛くもかゆくもないのが、本来の姿や。波が大事なのではなくて、海のストーリーが大事。



悟りとは、分裂症を治す事。

分裂症治療。

無字(の公案)は、その処方箋。

─ 自覚症状があり、治したい人は坐りましょうと。

そう。病原は、頭脳の作用。頭だけ何故かグルグル回転する自覚症状の人は・・・笑。それ病気やから。

─ でも、それがおかしいと気づかないとね。苦しいとか。そう思うと、年頃になったら大いに悩む方がいいんやね。

そうや、そうや。分裂症に気が付く事が、悟りの入口や。

─ でもさ、ずいぶん前から同じようなこと言ってたよ。ここまで現実的ではなかったけど。

でもな、言葉が難しい。現代人に分かる言葉にするのが難しい。しかも、禅の中身を変えないで、表現だけを現代風にするのが。



大智も大悲も、この悟りが無いと出てこない。

自分達は海で、その海から発する言葉や行動が、大智、大悲になる。波から出る言葉も行動も、どうしても打算でしかない。海から出る言葉のみが真実の言葉なんや。

聖者の言葉は海の言葉。波の人には意味不明、でも何か凄さを感じさせる。



無字は、自分を波だと誤解してしまって、そこから抜けれなくなった脳の病人を治すためのツールだよ。

「ムー」と言って集中している人は、自分の体が水であり海である方向に意識が引き戻されつつある状態。波の先っぽにある頭脳というツールを使って隣の波を観察している意識を、ムーーというその波の内面に引き寄せて、その波の本質が海と同じ水である事を知らせるための技なんや。

自分という波の本質が、海の本質と同じである事を悟るのはほんの一瞬の出来事。

それまで頭脳の分析フィルターを通して見ていた世界が、いきなり自己自身の水という本質を通して理解することになる。そうすると、どの水も同じであり、どこにも裂け目も分け目も区分も無いことが分かり、世界が一変する。その瞬間、人の思いの方が事実無根の妄想で、世界は一つであることが現実となる。

これが悟りのプロセスや。

─ うん。前からそう言ってる。笑 でも、それがもっとハッキリわかったのかな?

特徴は、前から言ってたとは思えない事、笑。毎回、初めてのように感じる。

─ リセットやね。笑


●付け足し●
─ 「波が大事なのではなくて、海のストーリーが大事」って、どういうこと?

波という現れは、海のストーリー。

海はどんな時もある。
どんな海も海。

嫌な波は無く、良い波も無い。

波は波を生きたのか、海を生きたのか。

海を生きる波は、永遠。
波を生きる海は、消える。

海を生きる波は、初めから生きていない、死なない。 海を生きると、あの波も生き、この波も生きる。海を生きると、波という命はない。

─ ほんとにそうなってきた?

なったよ。

─ KeiさんはAさんでもあるん?Bさんでもあるん?

命はない。命は限定できない。自分も限定できない。自分はAさんにもなり、Bさんにもなる。自分は限定できない。

─ それって、自由なん?

自由や。膨大な計算の果てが、この肉体。


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# by keiaya2015 | 2017-04-19 05:18 | 禅者の成長の歩み 2017

某坐禅道場で悟後の修行に励む在家禅者の個人的なブログ◆悟りとは、禅とは、坐禅修行とは… ブッダから途絶えることなく継承されてきた「禅」という究極の道を歩む修行者が、リアルな体験を元に語ります◆修行の歩みを記録して行くことを通して、伝統的な坐禅修行の奥深さと卓越性をお伝えすることを目指しています◆「悟りとは徹底的な否定の連続、だからどこまでも進んで行く」by Kei since 2015


by サラリーマン禅者