真理というこだわり

●要点●
簡単に言うと、妄想もそのまま悟りであることを悟らないといけない。真理と、妄想の区別をつけるなという事。どう言ってみても全て真理。こういうところは、ムジ(無字の公案)の時には突破できている。今回の(公案)は、話が入り組んでて、ごちゃごちゃしてて、頭がかく乱させられる。そして、妄想と真理が別のものに見えてしまうという落とし穴にはまる。

(その落とし穴から出るのは)難しい。真理というこだわりが強い。真理とか、正しいとかいう事へのこだわり。真理とか、正しさとか、これを目指して坐りだしたとも言えるくらいやし。そのこだわりを捨てるのは、並じゃない。これ、師匠を超えることも意味してる。この公案で飛躍する感じや。

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Kei ─
さて、禅の話。

Aya
─ まだ停滞中?


停滞してるというか、やっぱり老師の要求レベルが高いのかも。

今日も少しネットで(公案の)第○則調べたら、ちょっと難しいと思った。確かにこの公案、難しい。もしかすると、初心者が取り組む無字の公案のレベルの難しさかもしれん。

─ へーー それなら、停滞中ってことでええんかもね。

一回目の突破で開いた眼を、間髪入れずに二回目の突破に持って行くための。


簡単に言うと、妄想=悟り、これを超えなといけないんだよ、この公案で。

妄想もそのまま悟りであることを悟らないといけない。

真理と、妄想の区別をつけるなという事。

どう言ってみても全て真理。


こういうところは、ムジ(無字)の時には突破できている。今回のは、話が入り組んでて、ごちゃごちゃしてて、頭がかく乱させられる。

そして、妄想と真理が別のものに見えてしまうという落とし穴にはまる。

これは、ムジ突破直後なら行けるけどね。自分の殻を立て続けに破り続けるイメージかな。





この間もAさんとその話になった。殻を破り続けるには禅が一番。それには、できようができまいが、参禅・独参し続ける。独参し続けている姿こそ、自分の殻を破り続ける姿なんだと。まったくその通りやな。

反対に、公案がスラスラと通っている状況では、自分の殻は破り続けている状況ではない。公案は通ろうが通るまいが、その困った状況にさらし続けていることが、つまり自分の殻を破壊している姿。ここが肝だというところで話は一致した。


逃げてしまっては、自分の殻は壊せない。

(独参に来なくなってしまった)Bさんとか、Cさんとか。

そういう意味では、私は禅堂の役割の件も含め、ドンドン恥も何もなくやり続け、破壊しまくり。笑 殻破りや。





─ 殻と言えば、私の殻は分厚い。

壊せばいいのに。

─ 他人事や。

いやいや、要するに嫌なことをし続けるんや。

座るのが嫌なら座る。独参が嫌なら、独参する。無字が嫌なら無字する。


昨日発見したところでは、とにかく、問題は殻破りで、坐禅も、公案も、殻破りツールや。

まあ、殻を破ると自我がそれだけ取れて無我になるって話で、結論は同じやけど。

人が何かを嫌がるときは、それは、言葉を変えて言えば、自分の殻、既存の何か、フレームとか枠組みとか、それから外に出たり、壊して組み立てたりするときやから。


禅の大きな目的は、その既存の枠組みから出てしまう事。

これは、ハッキリ言って抵抗感凄いやろな、特に年取ってからは。

独参も参禅も、そこが妙所や。勘所。

─ それが、やめられん人が集まってる。笑

自分がはまっている既存の枠組みの中でしっくりいかん人らや。

とにかく参禅、独参していることが、その枠組みから出ようとする姿そのものやからね。





─ ところで、妄想と真理が別のものに見えてしまうという落とし穴にはまる・・・この落とし穴からは出られたの?

いや、難しい。

真理というこだわりが強い。

真理とか、正しいとかいう事へのこだわり。

これは、難しい。


こだわるように育ってきた、みんな。

真理とか、正しさとか、これを目指して座りだしたとも言えるくらいやし。

そのこだわりを捨てるのは、これは、並じゃない。いきなり難しいレベルやな。これ、師匠を超えることも意味してる。

この公案で飛躍する感じや。

─ 師匠を超えるってどういうこと?

(見性直後の)あの感じで、善悪も礼儀もこだわりを捨ててしまう感じの事や。老師やからなんやねん、関係あるか、みたいな。そういうことを言っている。こだわりのなさ。そのレベル。


この公案、気に入ったね。


─ 師匠にノセられた。笑

雲に乗って天竺に行く。



衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-07-10 05:00 | 禅者の成長の歩み 2018

坐禅の大敵

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Aya
─ 見解(けんげ)はどう?

Kei ─
パッとしない。

─ 笑笑

今まだ駅のホームにいる。トラブルで乗れない。昨日もそんな感じ。また今日も。人がホームに溢れてて、乗れない。

─ JRは故障とか多い、昔から。

ホームから落ちそう。危ない。

見解はパッとせん。

─ 週末は独参あるんでしょ?

ある。

─ しっかり坐らんとね。

なんとかならんかなあ、これ。


A先輩が言ってた、「坐禅の大敵は日常の煩わしさ」とはこのことや。

煩いが多いと、禅が停滞する。まさにや。

これ、サラリーマンにとって大変なことや。


最近はね、それでも、煩いが多いと、真の世界、本来の自己が見えなくなると言う実感を持ち出してるからね、

確かに、よく見える時と、見えなくなる時と、両方がある。

それは、雑事に煩わされているかどうかによって別れている。


雑事に囚われているときは、完全に見えなくなる。

そういう実感。

この区別がつき出していることは、意外に大きな変化や。




衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-07-06 05:00 | 禅者の成長の歩み 2018

修行の本質

●要点●
儒教や道教と、仏教の違いは一点。それは、ワンネスや。ワンネスやからこそ、因果律があるんや。他の教えにはワンネスはないから、因果律がない。因果とは一つのものの別の側面のことや。一つのものにしか因果はありえない。だから、釈迦と私たちは一つで、だから、釈迦と私たちは因果の関係にあって、釈迦は今も生きているんや。ここが、仏教の一番すごいところや。仏教のエッセンスはワンネスや。

で、ここに書いたことが、独参で老師に話せるかと言えば、これが無理なんや。(今やっている公案は)レベルが高い、示すのに。言葉に落とし込むのに、通常の思考回路を作り変えないかん感じ。それには、(書くのではなく)話す必要がある。大脳に何回も通して、回路を新たにする感じ。そうしないと独参通らん。新しい世界の言葉は、これまでの思考回路は使えない。

見性体験が現実化されるには、思考回路を作り変えてしまうほどの修行が必要という。かなりヘビーな作業や!で、受戒の意味も理解できた。それも、思考回路を改造するためのマニュアルや。物事を改善するのは見性ではなく、修行なんや。見性とは、マニュアルの見直しであって、実行は修行ということや。そうしないと、悟りが現れてこない。

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Kei ─
またあかんかった(公案通らなかった)。進んでない感じ。あきまへん。

わかってるのに(公案の答えを)出せない感じ。いつものことやけど、わかってるのに出せないという。それで何回も繰り返し同じところをする感じ。変だねえ。なんで、わかってるのにその時だけ、頭に浮かばんのやろね。

で、部屋(独参室)を出たら(公案の答えを)思い出す。また入ったら忘れて、出たとき思い出す。この繰り返しで、二、三回費やす。多分やけど、いつもそのことばかり考えてたら、部屋に入っても忘れんのちゃうかな?それとも老化?わからんなー



(先日のチャットの、観念や思考の)ベールは、プラネタリウムみたいなもんや。

あかんわ、これはただ坐るだけではあかんわ。話さないかん。この見解(けんげ)とかについて、ガンガン言葉を使って話さな、役に立たんわ。

確かに坐ることでインスピレーショは生まれるし見えては来るけど、それをそのままにしてたら、すぐに埋もれる。だから、形にしていかんといかんねん、やっぱり。

それには言葉や。

文字で書いてもあかん、それは人に示すだけや。

Aya
─ 形にするのがええの?


なんていうのかなあ、、、とにかく言語化して大脳に焼き付けなあかん。それくらいせな、人には示せん。

─ 公案て、そういうもんなの?



今も、因果一如の姿が突然出てきたけど、これが、量子コンピュータの原理というのが見えた。

でも、すぐに埋もれそうや。

因果一如でなければ、この世が成り立たないこともわかった。他の教えでは、これが解けないこともわかった。なんでかというと、他の教えは個別なものが前提になっとるから。

因果とは一つのものの別の側面やから、因果が成り立つ。

多分レベル高い、これ。公案てそういうもんてか、レベルが高いんや。示すのに。当初感じてたほど簡単じゃない。


言葉に落とし込むのに、通常の思考回路を作り変えないかん感じ。それには、話す必要がある。

大脳に何回も通して、回路を新たにする感じ。そうしないと独参通らん。


新しい世界の言葉は、これまでの思考回路は使えない。

ここまで言えばわかるかな? だから、書くだけではだめや。この新しい世界の言葉を使うトレーニングがいる。

文字と話すのは違うんや。



儒教や道教と、仏教の違いも面白い。

違いは一点。それは、ワンネスや。

ワンネスやからこそ、因果律があるんや。

他の教えにはワンネスはないから、因果律がない。他の教えは、箇々別々になってる。だから影響し合うものはあっても、因果ではないよ。

因果とは一つのものの別の側面のことや。一つのものにしか因果はありえない。わかる?

因果とは一つのものにある特徴や。だから、釈迦と私たちは一つで、だから、釈迦と私たちは因果の関係にあって、釈迦は今も生きているんや。

ここが、仏教以外にはない観点。仏教の一番すごいところや。

仏教のエッセンスはワンネスや。



で、ここに書いたことが、独参で老師に話せるかと言えば、これが無理なんや。

今の自分の思考回路は禅の最中というか、坐ってる時の回路になっている。だから書けるけど、会話が始まると別の思考回路が呼び出される。ここを改善しないとダメなんや。


今書いていることは多分、かなり歴史的意味のあることやで。

見性と修行の関係の本質。

見性体験が現実化されるには、思考回路を書き換えてしまうほどの修行が必要という。書き換えるではないな、作り変えるやな。

かなりヘビーな作業や!


修行というものの本質が思考回路の書き換え、作り変えであるなら、それは年齢にも関係あるね。

何歳になっても新しい回路ができるわけではないやろ?となると、ある年齢までにすでに出来上がっている思考回路がどうなっているのか、これも大事や。

真実の世界、ワンネスの世界に忠実な形の思考回路が若い時に出来上がっていると、見性もしやすいし、その後の人格改造も思考回路の改変も簡単ということになる。

つまり、早い段階でワンネス思考を身につけている方が良いということや。若い時にね。

─ うん。言ってることは理解出来たよ。さっきKeiさんが言ってたように、ホントにやるなら、お寺に籠るくらいでないとできんて事やね。サラリーマンの仕事をしながら、人格改造はキツイんやね、それは想像できるよ。



で、受戒の意味も理解できた。

それも、思考回路を改造するためのマニュアルや。


物事を改善するのは見性ではなく、修行なんや。

見性とは、マニュアルの見直しであって、実行は修行ということや。


─ 修行って?

改造のことや。

見性 → マニュアルの見直し
→ 戒律
→ 戒律に基づく修行
→ 思考回路の改造
→ 人格改造

見性で気がつくのはワンネス。

それに照らしてマニュアルが正しいかどうかチェックする。

それで出来たのが戒律。

戒律=マニュアル。

─ 戒律って誰が作ったの?

知らん。誰やろ。

─ やっぱり(笑)

マニュアル作りに関心がない。ただ、そのマニュアルがないと思考回路の改造が難しいことはわかった。肉食をしないことも、その意味や。メタボ対策じゃなくて、思考回路に関係してる。


これは歴史的大発見や。人格の改変まで行く道のり。そうしないと、悟りが現れてこない。現成公案しない。見性したら悟りが現れてくると思ってる人もいる。あれは間違いや。


─ でも、サラリーマンじゃ無理や。どうするねん。

まー、大変やな、これは。効率的にやるかビジネスマンらしく。

サラリーマンは、ある意味破戒的な方向に行っとる。とにかく効率や。

ところが、サラリーマンの生活は、間違った方向に行かせるためやな。


なるほどなー、読み解けてきた。


ワンネスを悟らせないようにしてるんや、サラリーマンの常識って。

アンチワンネスみたいな同僚もおる。

ワンネスとは、元からそうなものであって、人工的に作るものじゃないんよ。元のワンネス優位なのが仏道で、アンチワンネスみたいな同僚は、自分で人工的に作り出したがる。

これは、ヒトラーとかの自我の技や。知性でワンネスを作ろうという、自分が神になりたがるところ。


仏道のワンネスは、知性をワンネスに従わせる。

ワンネスによって知性が改造される。

戒律が必要になる理由がこれやな。



衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-06-25 05:00 | 禅者の成長の歩み 2018

脱落する身心とは

●要点●
昨日の続きで言うと、脱落する身心とは、自分の体の周りを球体みたいに取り巻いているベールみたいなもので、このベールが言語、観念、思考のベールなんや。通常はそれを通して世界を見ている。ところが、それは偽物で、その向こうに本物がある。それを見るには、そのベールを破らないといけない。そのベールが「身心」や、まずは。

人間の身心を脱落すると、仏の身心に脱落している。身心脱落、脱落身心 ⇒「身心が脱落すると、脱落した身心が現れる。」ベールが消えれば、別個にある自分なんてないことが見える。全ては、永劫の過去と永劫の未来が一如になっている今しかないことが見える。これが悟りや。大悟。

この見え方、見性した時と同じやな。禅堂の庭にある木が、こんな風に見えた。庭前の柏樹子。─ 見性体験後また見えなくなっちゃったってこと? わからん。観念が入り込んだとは思う。見性=大悟徹底の人なんていないから、アップダウンを繰り返すんやろ。昔ならそのまま大修行に入れたんだろうけど、今の時代は、大修行に入れないことが問題や。

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Kei ─
また見解(けんげ)や!

凄いわ、坐れてないのに、少し坐ったらいきなりや。昨日より今日の方がいいよ。

今日の見解メモ。


大悟。
本当の世界と観念のベールを通して見る世界。


本当の世界を見るにはベールを破って見る。

本当の世界では、全ては仏であり一如である。

この身も先祖の体そのものであり、永劫の過去と永劫の未来が一如になっている今だ。

これは恐ろしいことだ。なんということだ。

この一如が仏、本来の自己だった。

全く今までどこに目をつけていたのか。自分の体ですら全く見えてなかったことになる。

(2018.6.22 坐禅メモより)



昨日の続きで言うと、脱落する身心とは、自分の体の周りを球体みたいに取り巻いているベールみたいなもので、このベールが言語、観念、思考のベールなんや。

通常は、このベールが私とか、Ayaさんとか、何々さんとか、犬、猫、などなどのイメージの役割をしている。まあ、フィルターやな。

透明なガラスに、そういう観念が埋め込まれているような状態と言ってもいい。通常はそれを通して世界を見ている。


ところが、、、それは偽物で、その向こうに本物がある。

それを見るには、そのベールを破らないといけない。そのベールが身心や、まずは。


そうすると、その向こうにベールのなくなった世界が見える。これがムジ(無字)の世界で、そのまま仏の世界。

しかし、見えるものは同じ。

大きな違いは、例えば人が人ではなく、仏そのものになってしまっていること。星も山も木もね。全部、仏になってしまっていること。

人間の観念というベールに包まれていたものが真の姿を現してくる。それが、見るものすべてが仏の世界だよ。


人間の身心を脱落すると、仏の身心に脱落している。

身心脱落、脱落身心
⇒「身心が脱落すると、脱落した身心が現れる。」

只管に打坐して、身心脱落せしめよ。

わかる?

これは見性のことや!

道元さんの曹洞禅でも、見性はある!

ムーーと只管打坐して、身心脱落せよ。



この、すべてが仏の世界というのは、昨日言った、この身も実は先祖自身なんであって、別個に自分があるんじゃないという事と同じ。

この身が別個にある自分と見えるのは、その観念のベールを通して見ているからであって、そのベールが消えれば、別個にある自分なんてないことが見える。

全ては、永劫の過去と永劫の未来が一如になっている今しかないことが見える。

これが悟りや。

大悟。


Aya
─ ダイゴしたの?


すごいね、この見解は。

─ 今までとあんまり変わらない感じがするけど。2年くらい前にも、球体のような形がどうのこうのって話はしてたよ。お、この記事もなかなか面白い。初々しいね。



いや、この記事のとはまるで違う。この記事では、見え方、形状を言っているだけ。

今回見えてきたのは、この体を見たときに、ベールを通して見たのと、ベールなしに見たのとで、違うものになってしまう事。

物としては同じなんだけど、偽物の見え方と本物の見え方。まあ、同じ物体としても、まったく違うものとも言えるけど。


この見え方、見性した時と同じやな。

禅堂の庭にある木が、こんな風に見えた方。

庭前の柏樹子。


明確になってきたってことやな。





─ Keiさん、見性体験は凄かったけど、その後また見えなくなっちゃったってこと?

わからん。観念が入り込んだとは思う。

基本的に、はっきり見えているならば、公案で一切引っ掛かることはないってことやから。

そんなこと言うたら、そんな人一人もおらん。つまり、見性=大悟徹底の人なんていないから、アップダウンを繰り返すんやろ。

大きな見性をしても、また迷い、そしてまた見え始め、みたいな。


見性しても、昔ならそのまま大修行に入れたんだろうけど、今の時代は、見性しても仕事とか金稼がないかんとか、大修行に入れないことが問題や。

私が見性した時も、老師はそのことを心配してて、先輩が禅堂の役割を私に担わせようとしたのを止めたからね。その意味は、打坐に集中させろ、とにかく引き続き坐らせろと。今が一番重要な時だからって言ってたよ。

で、どうなったかというと、私は、相変わらず仕事やなんやかんやと忙しく、打坐に集中などできず、という訳や。

─ もったいない。でもまあ、育ってはおる。坐ってるし。坐禅大好きやし。

でも、坐っとるから、徐々に大きくベールが破けてきよるんやな。ちょいちょい驚く変化があるから。

若いBさんが私に懐いとるのも意味がある。あれね、私の本質が見えとるからや。要するに、悟後の修行の深さの問題やと思う。


衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-06-23 05:00 | 禅者の成長の歩み 2018

執着と自由自在

●要点●
さっき、自分の顔を鏡で見てびっくり。今まで自分だと思っていたもの、この体は、実は自分の親だった。実は、これは自分の先祖だよ。すべては引き継がれてるものしかない。新たにできたものなんて何一つない。体を大事にしなきゃいけないと論語で言ってたけど、正にこれやな。この体が先祖だからや。釈迦だからや。この身がそのまま釈迦で先祖で趙州で百丈で!釈迦もイエスも百丈も道元も、全部分身や!! 

もともと、体には形はない。頭の中で体を形作っとる。心の在り方によって形はどうにでも変わる。心は水のようや。決まった形がない。自由な心はどんなものにも形を変え、不自由な心は執着する。だから、目の前の時計が自分なんだよ。自他の区別がないのも同じこと。そのように心が姿を変える。まずは、(坐禅で)この心を自由にすることや。ある形に固まってしまっている心の鋳型をぶち壊し、元の自由な状態に戻す。

自由な心からすると、自分とか相手とか、あるとかないとか、空とか無とか、それらのどれかにこだわる事も鋳型や。生も死も超越も、どれも鋳型やった。一切のこだわりから自由なことなんや。禅からも、悟りからも。鋳型や、全部。禅の時は心が禅になるだけの事や。食事の時は食事ってね、自由自在に。本来無形、無一物。これが目指すところや。

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Aya
─ 仕事、忙しそうやね。


Kei ─
来客やった。予想外に・・・

なんかね、体が変。脱落してるみたいな・・・自分が空気みたいな感じ。

─ それって、病気?禅病?

さっき、自分の顔を鏡で見てびっくり。今まで自分だと思っていたもの、この体は、実は自分の親だった。

自分が動いているつもりでいたけど、実は、そう思っていたのは間違いで、これは自分の先祖だよ。この体ね。

頭の中だけで、自分という別のものを想像してるんだよね。実体は、これは先祖や。

─ 先祖ってのも、想像やないの?

言葉としてはそう言うしかない。もしくは、自分が先祖だったというか。自分が釈迦だというのも納得や。

目が見えてなかったんやな。初めての感覚や。



自分というものは本当は無くて、空で、何故かないのに、認識はしとる。

この実物の体は、実は先祖であり、釈迦であり、、、、なのに自分はどこにもいない。

いるとしたら、この空気中に透明人間としている。

この透明人間の自分は、、、、なに?めちゃリアルや。



体を大事にしなきゃいけないのは、論語で言ってたけど※、正にこれやな。

この体が先祖だからや。釈迦だからや。

一体なんやねん、この自分と思ってる空気みたいなのは・・・?

わけわからん。先祖しかおらん、釈迦しかおらんいうことか、、、、。

そういうことやな。リアルにそうやな。

身体(しんたい)髪膚(はっぷ)これを父母(ふぼ)に受くあえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり《「孝経」から》・・・人の身体はすべて父母から恵まれたものであるから、傷つけないようにするのが孝行の始めである。 (「コトバンク」より引用)



何かが引きはがされた感じや。

どこにも自分がいない。いるはの先祖や釈迦だけ。

でも、先祖や釈迦しかいないのなら、それが自分やな、本当の。

再見性みたいや。


そうか、そういうことや。先祖や釈迦がそのまま生きとるんや。

そのままここにいるってだけやないか。おかしいと思った!!

わかったぞ、Ayaさん!!


この身がそのまま釈迦で先祖で趙州で百丈で!

分身なんや。


自分という考え方はな、ちゃんとこの分身の身を見れないから起こす錯覚や。

釈迦もイエスも百丈も道元も、全部分身や!!


全部が分身やから、そもそも、仏なんやけど、、、、、、

Ayaさん、なんでそれが普通はわからんのかな?不思議や。皆分身やのに、なんでそれが見えないの??

この自分と思ってるやつは、体を持ってないじゃないか。



─ なんか、分身にエライ人の名前ばっか書いとるけど、ヒトラーやスターリンも分身てこと?

もちろんや。あれも釈迦の体や。ヒトラーやスターリンは、自分をヒトラーやスターリンの中に閉じ込めたんやな。

分かってきた。自分をヒトラーという観念に閉じ込めたんや。そのヒトラーという観念から出れば、仏の身やのに。Keiという身から出たら、仏や。


身心脱落

生きたまま、この身から出られる。だから体も何も無いような気分なんか!!


頭の中で体を形作っとる。もともと、体には形はない。心の在り方によって形はどうにでも変わる。心は水のようで、どんな形にもなる。その形が体や。

急にこういうことになるから坐禅は凄い。



心は水のようや。決まった形がない。

この身が釈迦だと悟れば、心がそういう形になる。この身が先祖だと悟れば、心もそうなる。


まずは、この心を自由にすることや。


ある形に固まってしまっている心の鋳型をぶち壊し、元の自由な状態に戻す。そうすれば、何にもないことが悟れる。元は何もなかったことが。

─ 最近あんまり坐れてなかったはずなのに、(こういう体験があるのは)オモロイね。

壊れるタイミングやな。心の鋳型が。既にかなりヒビが入っていて、何かの拍子に壊れる、そのタイミング。

そう、まさにこれや!!

心が鋳型にはめられてて、その鋳型は坐禅してるとひび割れしてくる。その鋳型が壊れる瞬間は誰にも分らん。

カギは心を型にはめている鋳型。

坐禅をしていると、心が自由になりたくて動き出すんやけど、すぐに妄想とか思考とか観念とかの鋳型に阻まれて自由にならなくなる。

そして続けていると、だんだん心の方が邪魔な鋳型に気が付いて、こいつを内側からドンドン圧迫して圧力をかけるようになる。圧力釜みたいに。普段は気が付かない状況に気が付き始める。心がね。

─ 圧力釜か。今の私の坐禅は正にそんな感じや。圧力感じとる。

そしてひび割れが起こり始める。



─ 久し振りやね、こういうの。ブログを始めた頃は、よくこんな状況になってたね。再見性やとよく騒いどった。笑

自分はあるわけない。わかってみれば。

すべては引き継がれてるものしかない。新たにできたものなんて何一つない。引き継がれてるというのも観念で、あったものが元々あるってだけ。

ロジカルに考えても自分があるというのはおかしい。今まで誤解してたな、色々。そんなもんや。

実は、来客が坐禅に興味ある人で、その辺からおかしくなってきて、話が終わった頃に鏡見て、こうなった。一瞬何が起きたのかわからんかった。

(※薄字の部分は、会話を元に編集人が書きました)


食事行く。



結局な、こういうことやな。今自分のしてることは、自分の親とか先祖、釈迦も含む、その人らがしたくて出来なかったこと、これを今生でしてるんやってこと。

その時その時、それらの人がしたくて出来なかったこと、釈迦もヒトラーも、それを継続してやってるんや。ヒトラーの本当にしたかったことは誰にもわからん。

ただ言えることは、あの人もイエスや釈迦の分身。分身以外にありえない。

心がどういう形にハマっていたかは別の話だよ。

心は水のようなもの、どんな形にでもなる。ヒトラーだけじゃない。



心が鋳型の外にあるとき、それを「本来の自己」と呼ぶ。

鋳型の中にあるとき、それを「自我」と呼ぶ。


自由な心はどんなものにも形を変え、不自由な心は執着する。だから、目の前の時計が自分なんだよ。

つまり、その時、心が時計に姿を変えているんだよ。自他の区別がないのも同じこと。

という意味で、私の時は私、Ayaさんの時はAyaさんなんだよ。そのように心が姿を変える。これを称して、空、無という。形がない事ね。


これはね、科学でもないね。事実や。科学というのは、器、鋳型の方の事や。だから、心は捕まえられない、科学では。心を捕まえるためには、心そのものになる以外ない。

どんな鋳型も、捕まえた心の形でしかないからね。心は、それ自体無形、捕捉不可能。唯一の方法は、心になる事。自由で無形な心になる事だけ。

その時に初めて心がわかる。それまでは、鋳型しかわかってない。

何やろ、急に、、、自分でも不思議や。



自由な心からすると、自分とか相手とか、あるとかないとか、空とか無とか、それらのどれかにこだわる事も鋳型や。

生も死も超越も、どれも鋳型やった。

一切のこだわりから自由なことなんや。禅からも、悟りからも。

鋳型や、全部。


禅の時は心が禅になるだけの事や。

食事の時は食事ってね。自由自在に。


本来無形、無一物。

これが目指すところや。


死から離れれば、死はない。「死?なにそれ?」的な、笑


─ 悟り・スピ系の人たち、悪い感じではないけどどこか違う感じがするのは、何かの鋳型にハマってしまったからなんやろね。禅でも有り得るかもやけど。


そうや。苦しみを避ける鋳型とか。ただハッピーっていう鋳型とか。

禅は違う。

苦しむ鋳型にハマるときは苦しい形の心という。

その違いや。

─ そうかーー

そう。

一切からの自由とはそういう事や。

─ 自由だから、ハッピーにもなるし、苦しむときもあるし、や。怒る時は怒る。あ、でも、仏教は、怒りを戒めてるけど。

自由な心なら、あえて怒りの形にはならないようにできる。苦しいだけだし。

─ ところで、公案は解けそう?

この前出した答えに対して、(老師に)幼稚だと言われた訳が分かった。

今度はいけるよ。



さっきここに書いたことは、かなり重要や。こんな風な表現をしてる人はいないかもや。

心という言葉は言いにくいんやけどな、普通。

─ どういう意味?

心なんて使いにくいやん。一番意味不明な言葉。実体がないし。科学的でないし。

けど、そもそも、理知から離れないと真理に近寄れないから。やっぱり心と言うしかない。心は、理知で語れないほど透明なもの。理知の器ではとらえられなもの。

─ 漂ってるもの?

わからない。たぶんね、無いんだと思う。無。

だから、対象となる形になることができる。どんな形にもなる。無だから。理知での表現ができない。

ある意味では、鋳型なんてあろうがなかろうが、関係ないともいえる。心にとってはね。


でもそれは、心は鋳型ではなかったと気が付いたらの話だね。気が付くまでは、鋳型をぶち壊してみるしかない。一回ね。

これで坐禅が進みそうや。


身心脱落の意味もわかるよね。心が鋳型から脱落することや。

心が虚空に戻る。


●付け足し●

─ なんか、最近飲み会続きみたいやけど、論語を無視しとる。体を大切にしとらん。禅が進んでも意味ない。

それはそうや。深く反省する。

─ 見性なんかしてなくても、論語を素直に実践している人の方が上や。

その通り。論語は実践しないとあかん。

前は忠実やったなあ。

いや、最近だんだん大変になってるからや、会社の人間関係とか。前はね、めちゃ真面目に実践してた。

それでも、禅の深さに目覚めたけど。禅のインパクトに。

─ でも、体を粗末に扱っとる。

そこは生活習慣みたいなもんやな。禅の悟りというより。

でも、今日の感じから言って、変われそうや。


衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-06-22 05:00 | 禅者の成長の歩み 2018

某坐禅道場で悟後の修行に励む在家禅者の個人的なブログです。伝統的な坐禅修行による奥深い体験と、山あり谷ありの成長の歩みを記録しています。「坐禅のすばらしさを伝えたい」そんな熱く純粋な思いでブログを更新中! 衆生無辺誓願度 (˘⌣˘)


by サラリーマン禅者