●要点●
「水と波紋」--「水」には時間も空間もないんだけど、「波紋」の方が時空を作りたがる。なぜなら、波紋は消えるから。人間はその存在のスタイルから、時空を必要として、それを創造し考え出した。そしていつの間にか、自分で考え出したものに縛られ始めた。そもそもは水や。存在のあり方は。波紋のように、形あるものと思ってるのが間違い。観念恐ろしや。事実とは違うものを見て暮らしていることになる。

本当にそのままを見ていると、その変化は波紋のようだとわかるはず。妄想や想念に囚われて、それが見えないんだよ。今の私には、自分が水であることの方がはるかに重くなっている。その事実が重い。 水は時空を必要としない、これは重い。波紋だけが時空にこだわる。(その事実は)坐り続ければ見える。坐るしかない。見性しても大悟しなきゃ意味がないし。徹底的に悟らねば。

「知」というのは難物やな。そのせいでみんなおかしくなる。知なんて、必要不可欠のものじゃない。知は道具や。これを忘れないこと。気違いに刃物とはこのことや。そういう狂気が現代かな。今や、禅のおかげでスマホがなくても世界は一つだとわかったけど、この先この狂気はどうなっていくのか。

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Kei ─
「波紋と水」このテーマで語ろうか。

波紋は、人。

水は本来の人や。

深く坐ると見えてきた。



水にはね、時間も空間もないんだけど、波紋の方が時空を作りたがる。

なぜなら、波紋は消えるから。

水は消えない。水には時空は不要なんだよ。



人間はその存在のスタイルから、時空を必要として、それを創造し考え出した。

そしていつの間にか、自分で考え出したものに縛られ始めた。

そういうことだよ。



そもそもは水や。存在のあり方は。

波紋のように、形あるものと思ってるのが間違い。



─ でも、そう見える。

いや、見ている間に変化して行くやん。年老いて。

それを認めたくない気持ちなんじゃないかな。



本当にそのままを見ていると、その変化は波紋のようだとわかるはず。

妄想や想念に囚われて、それが見えないんだよ。



観念恐ろしや。目くらましや。

はっきり言って、気が狂ってるレベルやな、観念に囚われている状態とは。

事実とは違うものを見て暮らしていることになる。



今の私には、自分が水であることの方がはるかに重くなっている。

その事実が重い。



これで、自分が何で世界に違和感を感じていたか謎が解けた。

みんな、波紋と思わずに生活してる。



─ 水の事実って、そんなに重いんや。

重いね。

水は時空を必要としない、これは重い。

波紋だけが時空にこだわる。



─ 時空がない世界、想像もできん。時空がないと、体がつぶれてぺしゃんこやん?

そもそも、体がないんやから。

体は時空の産物。



時空の不要な水の方では、体を必要としていない。

体って、波紋のことやから。

水本体は、それがいらない。派生物や。





─ 事実は重いって話、もう少し聞きたい。

波紋と水の関係でもわかるやろ?

これ、逆さまに理解している、普通は。

えらいことや。そんなんでまともな話になるわけない。

波紋が真実で、水はないものと。波紋が実体で、水が空気みたいな。



実は真反対で、水のほうが実体。

波紋のほうが派生物。

逆さまね。



─ まあでも、波紋しか知らないでいい波紋は、それでもいいかなって思うよ。

楽しければね。

問題は、それで納得して生きていけるかってことやから。



─ 納得出来ない私、かわいそうやな。

でも、坐り続ければ見えるよ。

坐るしかない。



見性しても大悟しなきゃ意味がないし。

同じことやな。

徹底的に悟らねば。





─ 今さらだけど、見性と大悟の違いって、分かり易く言うと何?

見性は、これまで無かったとっかかりを掴んだって感じ。

大悟は、この世の不思議さを掴んだ感じ。

全てわかるということはないね。わかると言える世界ではないし。



「知」というのは難物やな。そのせいでおかしくなる。みんな。

知なんて、必要不可欠のものじゃない。お金もうまく利用すれば役立つけど、盲目になれば害や。同じやな。

知は道具や。これを忘れないこと。正に気違いに刃物とはこのことや。そういう狂気が現代かな。

今や、禅のおかげでスマホがなくても世界は一つだとわかったけど、この先この狂気はどうなっていくのか。



衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-12-15 00:00 | 禅者の成長の歩み 2018

臨済四料簡/禅の使命

●要点●
臨済の四料簡(しりょうけん)は、見性から華厳に至る(4つの)プロセスや。プロセス③(対象も主体もない)は高度やな。自分が仏であることに気が付くレベルや。③はいったん死ぬとも言える。この死に切るというところは、禅の中でも大変なレベルやな。大悟徹底。どこにも命も何もない世界。そして、④(あるがまま)で大活現成する。この感覚が見えてくると、禅もやりがいがある。自由自在の片鱗を味わえる。世界が楽しくなる。生きるとは、この仏の命を生きるんであって、他には無い。

結局、人間の妥協の理想像みたいなものと、宇宙の実体を混同している感じやな、普通は。人間の理想像ってのは、あくまでもイメージの話。まるで違うよな、花が無数に咲いていることと、人間の理想像とは。全く関係ない話。禅が目指しているのは、無数の花を悟る事で、人間の理想像を検討し策定する事じゃない。無数の花が悟れたら、理想像はかえって邪魔になる。そういう変な縛りがかかっている頭を開放して、ナンセンスな話から解放する、これが禅の使命やな。

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Kei ─
見解(けんげ)は凄い。何かが変わり始めてる。

Aya
─ それはすごい。


坐禅をしてて、色々悩むことはほとんどないし。

坐った後、悩んでいたこととか、なくなってるしね。

一つ謎は、夜2回ほど坐ったら、その後すぐに眠くなること。すぐに眠れる。時間が早くてもね。これは、多分いいことやろうけど、不思議や。





─ ところで、臨済の四料簡(しりょうけん)※がわかってきたって話は?

※禅宗用語。中国,唐代の臨済義玄がその機根や時と場合に応じて弟子を教導する方法を4つに分けて示したもの。

(1) 奪人不奪境(だつにんふだつきょう) 客観的な対象があるだけで,それ以外の心とか自己などはない。<対象のみ>

(2) 奪境不奪人(だつきょうふだつにん) 客観世界があるわけではない。それはこの自己の現れにすぎない。 <主体のみ>

(3) 人境(両)倶奪(にんきょうぐだつ) 主観もなく客観もない。<対象も主体もない>

(4) 人境倶不奪(にんきょうぐぶだつ) すべてがありのままにある,<ありのまま・あるがまま>

という4つの立場を自由自在に応用した。

(コトバンクより



(四料簡(しりょうけん)は)見性から華厳に至るプロセスや。凄いね。多分、私流解釈やけど、いけてる。

─ 華厳※ て?

調べてみ。

※デジタル大辞泉 - 華厳の用語解説 - 1 《仏になる修行を華にたとえ、その華で仏の位を飾る意》仏語。多くの修行・功徳(くどく)を積んで徳果が円満にそなわり、仏になること。





全てがありのままというところまでいくのに、

①対象のみ ⇒
②主体のみ ⇒
③対象も主体もない ⇒
④ありのまま、

という推移がある。


自分の中心が虚空という、今の新たな見地もあってね。

問題は、これら4つあるように見えるけど、実は一つの世界の4つの見方ってことなんだよ。

空即是色、色即是空。主体のみ、客体のみ、というのはその中に入る。



最初は➀と②に目が行くけど、それは最初だけなんだよ。空とあるがまま。これが両極端。

でも、空であり、あるがままである。一つの世界しかない。



ところが、、、、あるがままの世界には、無数の主体があるように見えるだろ?

これが問題なんだ。





実は、真の自己というのは、数ではない。

自己の中心が虚空になっているところ。数で表現するとしたら、一、としか表現できない。

ここが深い悟りのところなんだろね。


─ その、「自己の中心が虚空」ってのは、見性で体験すること?

いや、見性程度では無理と思う。


中心が虚空の花を想像してほしい。

花は無数に咲いているが、その実体は?

実はないんだよ。


その実体がないというところを悟れば、無数に咲いている花も虚空に過ぎない。

つまり、主体とか客体とかではない。

ここのところが悟れたら、④のあるがままにたどり着ける。


─ そうかあ。なんだかよくわからん話や。笑

だろうね。


③と④は、特に③(対象も主体もない)は高度やな。

まあ、自分が仏であることに気が付くレベルやな。もう、死んでもかまわないと思える段階。

そして、④に復活する。③はいったん死ぬとも言えるね。➀や②の段階ではまだ死んでない。



この③の死に切るというところは、禅の中でも大変なレベルやな。

大悟徹底。どこにも命も何もない世界。そして、④で大活現成する。





まあ、この感覚が見えてくると、禅もやりがいがある。自由自在の片鱗を味わえる。


─ 見性はどのレベル?

見性は➀か②のところだね。


─ Keiさんは今、どのあたり?

③に挑戦みたいな。

③、④が分かってきたレベル。分かってきたから楽しくなってきたレベルかな。


─ 楽しくなってくるんや。坐禅。

なるね。世界が楽しくなる。

こんなに楽しい場所にいるのに、それを知らんというか、知ることができないなんて、、、て話になる。この世界がね。



特に何もなくても、この全世界が自分なんだから、それ以上何がどうとかないでしょ。

何か使命が見えてきたら、何でもいいからやるだけ。



─ 使命、見えて来たん?

今いる場所やな。

水が流れるように生きる。



一体何を考えてやってきたんだか最近わからなくなってきた。

生きるとは、この仏の命を生きるんであってさ、他には無い。



─ この仏の命、か。宇宙を生きるみたいな感じかな?

そうそう。でも、なんも高尚じゃないよ。

結局、人間の妥協の理想像みたいなものと、宇宙の実体を混同している感じやな、普通は。

人間の理想像ってのは、あくまでもイメージの話。まるで違うよな、花が無数に咲いていることと、人間の理想像とは。全く関係ない話。



禅が目指しているのは、無数の花を悟る事で、人間の理想像を検討し策定する事じゃない。

無数の花が悟れたら、理想像はかえって邪魔になる。



─ なんかよくわからんけど、仏の命が生き生きしてるってことは伝わってきたよ。

まあ、それが大事なことだね。

それ以上求めようとするとかえって変なものになるかもな。


禅とは微妙なものや。

当たり前のことに気が付くだけ。



でも、それがあまりにも身近過ぎて、だいぶ特殊な事のように思ってしまう。そこが間違いやな。

宇宙が一つで、人間も一つっていう根本的事実も、当然過ぎて根本的過ぎて、それが事実なら、自分たちのこれまでの世界観がひっくり返るから、どうしても特殊に思える。



一つの宇宙なら、タイムトラベルも何もないからね。

通常の世界が、タイムトラベル状態や。

何て言うか、自分たちが時空の中で生きていると思っているから、タイムトラベルが特殊に思えるんやろ?

実は、時空がない中で生きていたとしたら、タイムトラベルはナンセンス。

そんなことや、禅は。



そういう変な縛りがかかっている頭を開放して、ナンセンスな話から解放する、これが禅の使命やな。

元々仏の国にいるし、仏やし、時空もないし、一つやし。

ジタバタしなくても、我々はそういう存在です。

皆さん、早くそれに気が付いて、幸せに生きましょう。



皆が普通現実だと思ってるのは、知性、頭脳が作り上げた縛りの多いでっちあげの世界だよ。

事実は、この世は縛りも時空も何もない自由な世界です。



衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-12-14 05:00 | 禅者の成長の歩み 2018

禅は幻影を破る

●要点●
禅は幻影を破る。既にワンネスなんや、世界は。共同幻想も、そのワンネスを体現するための手段でね。(ワンネスは)愛し合いましょうというより、そのように生きて支障がないことを体現する。たとえばイエスが永遠の命を手に入れたように、愛に生きても支障がないってことを体現する。要するに、みんなビビるねん。愛になんか生きれんと思う。ところが、そのように生きた場合、イエスみたいになる。なぜなら、世界の事実はワンネスだから。

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Aya
─ このスピ系のサイト、悪くないと思わん?ワンネスとか、愛とか、悟りとか、そういうのを大切にしてる。なんか幸せそうやし。ちょっとキラキラしてるけど。


Kei ─
このスピ系ブログの謳い文句はどこか空々しい。なにか、別の世界があるように見える。

世界を作り出すのはこの自己やのに。作り出した世界にハマってる。

人々を幻影に誘い入れる。


禅は幻影を破る。


紙幣は紙。それに価値を共同幻想する。この幻想を破る禅。





─ 前回のブログの記事でね、「事実の世界に沿ったイメージで過ごすことが重要になる」って言ってたのね。このスピ系のやってることって、それなんやないかなあ。

事実に沿ったイメージで?ワンネスとか?

でも、ワンネスは、あんな感じじゃなくて、スマホとかや。


─ スマホ??

既にワンネスなんや、世界は。

それを体現するって話ね。


─ 素人は、スピ系みたいなのをイメージするよ。みんな愛し合いましょう、みたいな。

共同幻想も、そのワンネスを体現するための手段でね。

愛し合いましょうというより、そのように生きて支障がないことを体現する。


─ どういうこと?

うーん

たとえばイエスが永遠の命を手に入れたように、愛に生きても支障がないってことを体現する。そんな話。

要するに、みんなビビるねん。愛になんか生きれんと思う。


ところが、そのように生きた場合、イエスみたいになる。

なぜなら、世界の事実はワンネスだから。


─ なんで、イエスが愛に生きたってわかるの?

金のためではないから。

ビジネスマンは、十字架は金にならんからせん。単純や。


─ 聖書はあんまり読んでないはずやけど。

聖書なんか読まんでも、彼がビジネスマンやったか、政治家やったか、愛に生きたかったかくらいはわかるやろ。


─ じゃあ、Keiさんはどうやって生きるのが、事実に沿ってるの?

事実に沿った私の生き方は、今、坐禅が好きでハマってる、その事実。

多分Ayaさんは、事実が自分と離れてどこかにあると思ってるんやな。


─ 事実に沿った生き方してない人もおるの?

そんな事実はないよ。その感覚が事実から離れた生き方なんや。


─ いや、もしかしたら、みんな事実に沿って生きとるんやないか思ってね。

事実に沿った生き方とは、自分と離れていない生き方。

そう、みんなそうや。なんでか気がつかん。



衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-12-07 05:00 | 茶話・禅話

釈迦の夜空と自分の夜空


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●要点●
この世にもあの世にも、実は自分しかいない。自分の中身は空っぽで、宇宙の隅々までが自分の中にある。妄想やイメージすらそうで、それは自分の頭の中にある自分だけのもの。つまり外にはない。ところが、そのイメージや妄想は言語とかで他人と共有できるから、あたかも外の世界に実在しているように錯覚することができるという仕組みなんだ。

全世界はAyaさんなんや!想像じゃダメで、Ayaさんが、宇宙の果てだと見抜かないかん。Ayaさん自身しか、宇宙はないんやから。とにかく、イメージも事実も、両方Ayaさんを限度としてあるだけや。Ayaさんの全身が妄想の全身、Ayaさんの全身が宇宙の全身。宇宙の隅々まで含む本物の自己は、そのままで自分なんだよ。釈迦も全宇宙、Ayaさんも全宇宙。だから時空を超えて同じなんや。凄いやろ?坐ると見えてくるで。

本来の自己は自分だけが知る。ところが!その自分だけしか知らないと思っていた自分だけの世界というのは実は‼️ 釈迦の自分の世界と寸分違わない同一の世界。なぜなら、釈迦が夜空を見上げても、Ayaさんが夜空を見上げても、見るのは満天の星。それが、釈迦の自分、Ayaさんの自分、全く同一や。まさか、釈迦の夜空と、自分の夜空が全く同じとは。凄いことや、これは。朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり、や。


※上の美しい写真は下記HPから拝借しました。


禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから


Kei ─

テーマ:全宇宙、ちょっと忘れないうちに書いておこうかな。

あることがあって、世界が軽く瓦解した。

瓦解したら出てきたね、全宇宙が。



この世にもあの世にも、実は自分しかいない。

ところがこの「自分しか」というのが曲者で、この場合、自分の中身は空っぽで、宇宙の隅々までが自分の中にある。

つまり、それらを抜きにして自分は実体がないとも言えるわけだよ。妄想やイメージすらそうで、それって自分の頭の中、つまり外にはないという事。自分だけのものだよ。

ところが、そのイメージや妄想は言語とかで他人と共有できるから、あたかも外の世界に実在しているように錯覚することができるという仕組みなんだ。



だから、単に坐り、周囲とのコミュニケーションを遮断して坐禅すると、イメージも妄想も自分だけのものと分かってくる。

イメージも妄想も抜きに、単に目に映るものですら、それはどこにあるかというと、自分の目に映った映像の感覚でしかない。触っても触覚でしかない。



つまり言いたいことは、「自分のみ」です。しかもこの「自分のみ」とは、宇宙の隅々まで含む自分なのだね。



あそこに何かがあって、ここにこれがあると思うのは、イメージを共有するための方法・方便・思考の操作なんだね。

本当は、自分個人の頭の中にしかない。イメージはね。イメージの世界はみんな勝手に作れる。



宇宙の隅々まで含む本物の自己は、そのままで自分なんだよ。





自我の存在も明らかになる。

そいつはイメージの世界にいる。勝手に自分とあれこれを分けている分別のイメージね。

「全宇宙がこの体」と言っているとき、一つの体の中で別れようがないじゃないか。この体=全宇宙ね。



イメージの世界は恐ろしい。

自分の肉体というイメージと、他に何かが肉体の外にあるというメージを作り出す。

これは事実に反するので、外部に何かがあるというイメージにとらわれると、病気になる。

実際には、全て自分の内部です。



こうなってくるとイメージ・妄想は重要で、この世界の事実に沿ったイメージで過ごすことが重要になる。

事実から離れれば離れるほど、苦しい、狂った、病気の認識になって行く。

つまり、正しく楽しく楽なイメージ世界はワンネスというのが答え。





そういう意味では、個人主義も、禅的には一見間違った狂った世界に見えるけど、

人として個人なのは実は正しくて、対立ね、自分の肉体と外部の者の対立感が問題なんだよ。

いくら個人主義でも、その個人の中で世界のワンネスが確立していれば、周囲が何と言おうと関係ない、それでいいという事になる。



個人の中で、全宇宙のワンネスを確立させる、というか確立してしまうんやな、悟ると。

それが人格の完成や。

個人の中に全宇宙が調和をもって存在する事ね。



仏が特別な存在として出てきてもいいけど、特に仏である必要はない。

全宇宙の調和、これが人やな。人間です。





Aya
─ 友人のおしゃべり聞きながらチャットしてる。


おしゃべりを聞いとるのは誰だ!!、、、これも無字(の公案)やで。

誰やろ?、、という思考はどこで起こってるのか??

それは何なのか?突っ込んで行ってみ。

─ わからん。

教えたやろ。

考えのテーマが大事なんじゃないんや。

その思考は具体的にどこで起こっとるのか。その場所が問題なんや。



Ayaさんの思考はAyaさんの生理的電気信号に決まっとるやろ。それが全てや。他には何もない。

友だちのおしゃべりは、友だちの生理的活動。でも、それを認識してるのは、Ayaさんの神経の生理的電気信号活動や。

Ayaさんなんておらんねん。おしゃべり聞いとる世界が、全部や。



この世の中には何もない。Ayaさんだけがおるねん。

そのAyaさんが、仏を持ってたり鬼を持ってたり神や悪魔を持っとるねん。全宇宙も。



Ayaさんが持っとるものは、なんと釈迦が持ってたものと完璧に一致してるねん。

なんと釈迦が、、、

寸分の違いもないというのは、そういうことや。Ayaさんと釈迦。



釈迦も全宇宙、Ayaさんも全宇宙。だから時空を超えて同じなんや。

私のおるところにはどこでもある。凄いやろ?

坐ると見えてくるで。





─ 坐禅はすごいなあ。普通の人にしたら、ただの不思議体験やろうけど。

普通の人も、宇宙の果てはどこにあるのか、わからんやろ。

─ 果てを想像することは不可能。

それは、想像やからや。

─ なるほど!

想像、イメージ、妄想には限度はない。だから、エンドレス。

そうじゃなくて、全世界はAyaさんなんや!



想像じゃダメで、Ayaさんが、宇宙の果てだと見抜かないかん。

Ayaさん自身しか、宇宙はないんやから。



とにかく、イメージも事実も、両方Ayaさんを限度としてあるだけや。

Ayaさんの全身が妄想の全身、Ayaさんの全身が宇宙の全身。





まだまだ凄い見解(けんげ)が出続けてるけど、書き出す時間がない。惜しいな。


肉眼で見ることが悟りや。


まずはっきりと見、

次にそれが自己だと悟り、

そして、妄想やイメージがはっきりと見ることを非常に妨げていることを悟る。



妄想、イメージは、はっきりと物を見ることを妨げる。

ハッキリ見れば、そいつが本当の自己だとわかるよ。

悟ることは思ったより簡単や。


◇◇


本来の自己

外観とは全く違う、本当の世界。


本来の自己は自分だけが知るんだよ。

いくら他人とイメージで共有できても、それは偽物。存在しない。

共有できていても、本当の自分はその人のみぞ知る。

冷暖自知。



ところが!

その自分だけしか知らないと思っていた自分だけの世界というのは実は‼️



釈迦の自分の世界と寸分違わない同一の世界だったとは。



なぜなら、釈迦が夜空を見上げても、Ayaさんが夜空を見上げても、見るのは満天の星。

そこに映るのは、満天の星。

それが、釈迦の自分、Ayaさんの自分。

わかるか?



それが、私の自分で、Ayaさんの自分と全く同一や。

老師の無字の自分も、Ayaさんのムジの自分も、同じムジの自分。





朝に聞けば夕に死すとも可なり、この論語の言葉、本当やわ。


真理がわかると、死んでしまって、それで良くなる。

本当の自分に出会うと、もう死すとも可なりや。

本当の自分に出会うと、その時点で一回死ぬな。確かに。死んで蘇る。



まさか、釈迦の夜空と、自分の夜空がまったく同じとは。

妄想やイメージが邪魔して見えなかっただけや。



妄想やイメージがあると、釈迦の夜空と自分の夜空が同じことすらわからなくなるらしい。

凄いことや、これは。

─ それにしても、坐禅はすごいなあ。

すごすぎる。ほんとに。

で、これが見えると、いつ死んでもいい気になる。




衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-12-05 05:00 | 禅者の成長の歩み 2018
●要点●
自分なりの(公案の解釈や)理解をまとめているとき、自分が答えを探していることに気がついた。だけど、その答えを求めること自体が禅で克服しなければならないこと。答えはなく、即今その場の自己、この宇宙の今しかない。他には何もない。ないのに答えを欲しがる人間の理性の機能なのだね。だから、その理性という機能をそのままに受け入れて、なるようにさせておくのが良い。そこに出てくる答えは、とにかく妄想。あくまでも妄想であって、本来の面目はそこにはない!

禅者Keiと坐禅初心者Ayaのチャットから

Kei ─
それから、いい考えが出た、公案!

今日ね、公案の全文をワードにコピーして、それに自分の解釈を書き込んで行ってみた。

そしたら、スラスラと出てきてね。


要するに、書き込むことで何かが引っ張り出されるみたいや、私は。

坐って見解(けんげ)を出すより、まずは公案の理解を区切り毎に書き込んでいくと、意外に見えていることがわかってきた。

これや!ってね。


今気が付いたけど、これって、提唱の下書きみたいなもんやな。自分が提唱すると想定して準備しておく感覚。

まあ、本当はこれくらい入念にしておかないといけなのかもね。


昨日やった下書きを送ってみた。メール見て。

─ ・・・ なかなか頑張ってるね。

言いたいのは、そういうまとめ方が独参に有効という事がわかった。

公案の話の本質は、じっくり練らないと言葉にしにくい。


─ 今までが適当過ぎたというか、行き当たりばったりだったというか。同期のAさんも、メモとってるんでしょ?

確かに。いままでが適当過ぎた。

だから、さっきのみたいな程度にはまとめていく必要があるね。

確かに、文字にまとめれば出来るのに、なんでだろう、、、と思われたかも。





今ちょうど、さっきの公案の答えが出たところ。

書き出すと出る。不思議や。


─ おーー!それはよかったね。そして、書いておけば忘れない。

これをノートに書いて、持ち込めばいい、独参に。

要するに、老師を前にして考えるからダメなんや。事前に答えておいて、それをオオムのように言うだけ。決めた!

そのオオムのセリフを記憶に頼らないで、ノートにメモる。決まったな。


─ まあ、この方法がダメやったら、また考えよう。七転び八起き。笑

そうそう。





自分なりの理解をまとめていると、自分が答えを探していることに気がついた。

だけど、その答えを求めること自体が禅で克服しなければならないことなんだと。


答えはなく、即今その場の自己しかなく、

即今その場の自己とはこの宇宙しかなく、

他にはいかなる答えもない。この宇宙の今しかない。


でもそれは、捉えられない世界。

けど、それが全てである。他には何もない。

ないのに答えを欲しがる人間の理性の機能なのだね。


だから、その理性という機能をそのままに受け入れて、なるようにさせておくのが良い。

そこに出てくる答えは、とにかく妄想です。

でも、その妄想力が人間の理性の力。

あくまでも妄想であって、本来の面目はそこにはない!



衆生無辺誓願度 🙏


# by keiaya2015 | 2018-11-28 05:00 | 禅者の成長の歩み 2018

某坐禅道場で悟後の修行に励む在家禅者の個人的なブログです。伝統的な坐禅修行による奥深い体験と、山あり谷ありの成長の歩みを記録しています。「坐禅のすばらしさを伝えたい」そんな熱く純粋な思いでブログを更新中! 衆生無辺誓願度 (˘⌣˘)


by サラリーマン禅者